続・1984年の歌謡曲を堪能す

前回からの続きだよ)
前回は中森明菜の飛躍について書いたが、1984年は、小泉今日子飛躍の年でもあった。早速、『1984年の歌謡曲』の中から引用させてもらおう。


84年、小泉今日子がピークに達している。『渚のはいから人魚』が33万枚、『迷宮のアンドローラ』が38万枚、『ヤマトナデシコ七変化』が41万枚、そしてこの曲が37万枚。あの『なんてったってアイドル』ですら28万枚なので、この84年が、80年代の小泉のピーク。この84年の4曲のシングルを眺めれば、『渚のはいから人魚』からこの曲へ、あるグラデーションが感じられる。つまり、男性への目線から女性への目線へ。男の子のアイドルから、女の子のシンパシーも吸収する、新しい形のアイドルへ。
小泉今日子スターダスト・メモリー』)



⇒小泉今日子は、前年に髪をショートにしてイメチェンした時点で、女の子のファンをある程度獲得できていた。
が、さらにこの『スターダスト・メモリー』で失恋した女の子の心情を歌って、同年代の同性ファンを一気に増やした感がある。
それは、松田聖子にとっての『赤いスイートピー』に相当する。
それにしても『迷宮のアンドローラ』の売り上げがここまで高いとは・・・嫌いじゃないけど、結構地味だぞ?
ま、それほど84年の小泉今日子は勢いを持っていた、ということだ。

小泉今日子や中森明菜がアイドルとして独自の進化を遂げ、独自の世界観を繰り広げてスパークした1984年。
そして、前年にデビューしたチェッカーズも、一気にブレイク。
以前ブログ(⇒1984年のスターとその楽曲たち)にも書いたが、何と言っても、1984年はチェッカーズの年。

この本の著者のスージー鈴木氏も、同じことを言った上で、こうも言っている。
1984年は、売野雅勇の年だった。
そう。1984年のチェッカーズのシングル曲の歌詞は、全て売野氏によるものだ。

何もチェッカーズだけを手掛けたのではない。
元々は中森明菜の楽曲を手掛けたことで頭角を現した人だ。
特に1984年は、人気歌手の楽曲を次々に手掛け、ヒットを飛ばした。

とうとう、チェッカーズ人気に押された近藤真彦までもがすがってきた。
売野氏作詞の『ケジメなさい』は、マッチにとって久々の大ヒットとなった。
その時のマッチって、服装とか髪型が「ヤンキーポップ」調になり、何となくチェッカーズを意識してたような。。
そう。硬派が売りのマッチでさえ、チェッカーズに寄せてきたんである。

一般的に「70年代は阿久悠の年、80年代は松本隆の年」と言われている。
しかし80年代に関しては、厳密に言うと「80~83年は松本隆の年、84年は売野雅勇の年」になるのかな。85年以降は、作詞家の偏りはそれほど見られない。

85年以降のチェッカーズに関しては、この著者によると
86年、売野=芹澤ラインを離れ、自らの手による楽曲をシングルにし始める。個人的には、これが合わなかった。東京性の鎧を取り外してみると、福岡がよそ行きの東京を羽織ったような、中途半端な曲ばかりに感じてしまったのだ。やはり、チェッカーズは売野=芹澤ラインに限る。(中略)東京性でバッチリめかし込んだ後に、その中からにじみ出てくる福岡性を愉しむに限る。

⇒これも全く同感。1984年にリリースされたアルバムのジャケ写では、メンバーがミノムシの形で木からぶら下がっているそうだが、その「ミノ」になってる新聞が、英字新聞なんかではなく福岡の地方紙らしいのだ。
セルフプロデュース時代(86年以降)になってからは、そんなことはあり得ない。「英字新聞」的なグループへと様変わりしてしまった感がある。
「遊びゴコロ」や「郷土色」が消え失せ、とりすましたチェッカーズは、やはり魅力に欠ける。

ちなみに、度を越した「遊びゴコロ」で楽曲作りを行ったのが、85年以降の秋元康である。
そしてその曲を歌い、遊び半分で「ゲーノー人」をやってたおニャン子の面々に、日本のミュージックシーンはすっかり汚されてしまうのである。

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